烏天狗の木の葉手帖

その日にあったことや呟きたいけどTwitterの文字数じゃすくねえぜっていうのを書くだけのブログ

距離感や怒りの沸点

「あんたは私の子やからベッタリするの合わへんで」

 

これは、人とベッタリするのが合わない母からの言葉である。

 

私はこれを聞いて、確かにそうだと思った。

 

人と居るのは好きだ。でも、ずっと一緒に居るのは好きかと聞かれれば、すぐに否と答えるだろう。

 

人との距離感は大事だ。でもそれは「失礼にならない距離感」も大事だが「自身の負担にならない距離感」の方が私は大事だと考える。

 

私は、定期的に一人の時間が欲しい。従兄弟が5日ほど泊まりに来た時があったが、家は狭いので一人の時間が作れず、ストレスが溜まったのは今でも覚えている。数十分位でいい、一人の時間が欲しいのだ。

 

もちろん、人と一緒に居る時間が負担にならない人、一人で居る時間が苦痛な人も居る。一人でいるのが苦痛な人とずっと人と居るのが苦痛な人、一緒に居ればどうなるのか。間違いなく、どちらか片方が苦痛を感じるだろう。

 

他にも苦痛を感じることは人によって変わるだろう。私の場合は「怒りの沸点の違い」である。

 

自己分析だから、もしかしたら違うかもしれないが、私は追い込まれていない限り怒りの沸点は大分高い。よっぽどの事がないとキレない。元々無愛想で声も低めなので不機嫌だと勘違いされる事もあるが、実際は推しの事しか考えてないので安心して欲しい。

 

だから自分では怒らないような事で怒ってる人を見ると「どうしてその程度で怒るんだ?」と思ってしまう。そう考えたりするのがとてつもない苦痛だ。ストレスだ。考えなきゃ済む話だが、どうしても思ってしまう。理解出来ないことは考えてしまう。

 

考えて疲れて、答えなんて見つからないから心のどこかに置きっぱなしにして、それが繰り返して山積みになって、小さな苦痛が大きな苦痛に変わる。それがどうしようもないくらいにしんどいのだ。

 

だから、距離感や沸点が違うなとなって、苦しくなった時に、私は少し離れる。離れて、自分の心が落ち着くまで忙しくして、好きな物で溢れさせて、考える隙を与えずに消化するまで待つ。相手に悪い所は一切ない。私がただ合わせられなかっただけ、その余裕が無いだけなのだ。だから消えるまで待つ。

 

たとえ消えきらなかったとしても、その苦痛が消えたと思ったら、再び近づいてみる。私にとって丁度いい距離感を見つけるまで繰り返して探す。

 

そこまでして一緒に居たい相手かと聞かれれば、分からない。でも、一緒に居たくないと思ったら、距離を取るんではなくそのまま離れてしまえばいい。距離感を測ろうとするという事は、そういうことなんだろう。

 

私は自分の負担にならない距離を見つけるのが苦手だから、すぐベッタリして苦しくなるんだろう。それでも、自分のペースで、一緒に居たい人の取捨選択をして、程よい距離感を取れるようになりたい。